修行というと、瞑想とかそっち系になるわけだけど、筋トレの方向性は「増加」にあるわけで、修行の方向性は削減とかシンプル化になるかな。
ただ増やせばいい、ということではない。もちろん、法則性があるのだから、合理的であるのは当然。脂肪と筋肉は違うということ。
ところが、修行というと、動作そのものを研ぎ澄ます、という方向性になる。ムダな動作を省くのだから、トレーニングという発想自体がなくなる。
トレーニングはノルマだけど、修行は「必要にかられて」自発的にやることになるかな。
筋トレは一定の効果があるのだけど、守破離の守に当たる。
……とかいう妄想を働かせて、考えてみるのだけど、ライティングはおもてなしではないか? とかも考えたりする。
文章力というから、パワーだと思うのであって、エネルギーだと思えば、いかに人を動かすかということに焦点を当てることになる。
利に聡い人は、文章を読めるかもしれないけど、一般の人は、面白くないと読まない。
楽しい、という動機は、バンコク共通なのです。
苦行は修行じゃないってことね。