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問題意識を書けないのは問題ではないか? という問題意識

トトロだけど。

ブログを書く、それを誰かが読む。

誰かに刺さる文章を書く、というのは大前提だけど、何が刺さるかは分からない。

問題意識(例えば、誰もが批評するようになったが、不寛容との違いが分かっていない人がいるとか)を書けば、刹那的に、問題意識を共感するのだけど、共感するだけで満足して、その問題の背景とかを考えずに、問題意識ごと消費するようになる。

問題の課題は何か? みたいな、一歩先に進む方法を模索するではなく、0から1に意識化、見える化されることで満足、という結果を生むことは多くないか?

既に、タイトルとの差異が出ている気がするけど。

問題を見える化する、というのは大事だけど、それってブログの役割だっけ? とか思ったり。

ブログというインプットだけでは、読者は行動しない。

もし、問題意識があるなら、何か行動に繋がるように対策を考えるのが自然な流れだと思ってたり。

もちろん、見える化自体に価値はある。あるけど、それだけでは消費の対象にされかねない。

行動とは何か? プログラミングだ、というのは飛躍しすぎだけど、行動力もプログラミング能力も持たない自分には定義しにくい。

たまたま本を読んでいた、なんてない。

ちょうど読んでいた本にインスパイアされて、みたいな下りがあったら疑う。

それってバイアスかかってない? みたいな。

普通の人は本を読んでいない、みたいな。

 

たまたま見た映画で、みたいなことも、同様。

映画は、興業。価値があるものしか残らない。

価値のあるものをみて、ああ、価値に気付いた! って。

 

将来のために、何か種まきをする、というのを、心がけるかどうか、というのはある。

そういう仕組み(読書をする)を仕込んでいるから、たまたまプラスになることがあった、みたいに言える。

 

思考を言葉にするのは、慣れない

目的に寄るのだろうけど、思考を言語化するのは難しい。

ちょっとした気づきを言葉にするには、当然前もって気付いている必要がある。

しかし、このブログでは、たいていの場合は書いている最中に気付いている、ことが多々ある。

動的な思考が、言語化する価値のある文章を生み出すことがある。

もちろん、そうでない駄文もある。それはそれ、よそはよそ。

 

文章を書くことを生業としているのではないから、そこまでこだわらなくてもいいかもしれないが、文章には多少の自信があったりする。多少。

 

俳句のように、17音に意味を込めるのとは違い、多数の音数をかけてもいいのだから、思考を書く、というのにこだわるのなら、大量に書くのがいい。

しかし、書くのは、手癖というのが出てくる。また、同じような文章を書いた、みたいな、間の抜けた文章を読ませることもあるかもしれない。

まあ、たいていの人にとって、この文章は価値がない。

読んでもらえるか、分からない。

読まれなくても良い、という一種の逃避が、心の安寧には役に立つこともある。

 

何が役に立つか、というと、トライアンドエラーが一番役に立つ。試行錯誤、は錯誤がなじみがない。エラー含みのトライが許容されている、という環境こそが価値がある。

 

つまり、下手なことを書いても『ごめーんちゃい』って言えば許してもらえるような状態がいい。

面白い、には力がある

 

やる気がないとき、どうしたら面白くできるか、という視点があると少し気が楽になる。

それこそが力だ。

面白いには、『常識とは違って』というキャプションがつく。

常識が面白い、とはならない。それは文化の違いだ。

尊重の気持ちがあれば、面白く感じることは上質の体験になる。

 

文章を書くということ

文章、悩んでます。

メモ以外に書くことが、実に面倒であることが増えているような気がする。

学生の時分から、必要事項以外のメモを取る、以外に書いていなかった。

 

しかし、よく考えてみると、自分の考えを伝えるような場面でも、正確な筆致をした覚えがなく、むしろ内容を書き落とした、足らない文章の方が多い。

 

言葉足らず、という言葉が、自分を言い表す言葉として的確だ、と指摘されたことがあるほど、自分は言葉が足りない。

正確には、文章を書いてみるまで、自分が何を考えているのか、知らないというパターンだったりする。

そう、自分の考えだとしても、書いてみるまで本人も知らないというくらい、脳を使ってない状態、かもしれない。

 

だから、書くという作業は積極的にしていきたい、とは思っている。自分が何を考え生きているかの証明のために。つまらない見栄の為に。

 

いやー、結構書いたなーと思って見ると、トータル原稿用紙1枚に満たないのを見て、愕然とする、というのがよくあるパターン。

頭の痛い話。

頭痛の話をすると、頭が痛くなる。お前は今まで食った錠剤の数を覚えているか? 的な。

頭痛の種、という比喩を生み出した人を評価したい。ほんと、タネと呼べるくらい小さな違和感から大きくなるんだよね。

おれってかしこい病はググらない。

少ない経験から、絞り出すようにブログを書く、と言う行為に、共感する人は多少はいるかもしれないけど、あまり一般的ではないと感じる今日今今。

自分の頭で考えるな、と言う態度が、研究者にとって大事な素養らしいのですが、NHKでやっていたらしい縄文時代の知識が、何十年も前の知識で止まっているとのツイートを見て、ついにテレビ局は教養をも手放したのかと思ったり。

自分らの頭で考えた、筋に合わせてロケをして番組にするという流れが常態化しているため、科学的見地が必要な場面でも、自分の頭で考えたんでしょうね。ググって出てくる情報はいまだ古いにしても、図書館なり文献なり、探すことはできないのかな、あ、人員削減がここで効いてくるのか。

そんな暇はないよと。

いくら、論理的に進めても、事実を検証してないなら価値がない。

さて、そんな世の中でも光明はあるわけで。

それが子供科学電話相談、だったかな?

勢いが大事なので、ここはググらずに書きます。

小さな科学者に、その道のエキスパートが答えるという、とてもユニークな番組です。

不思議だと思ったことが、研究の第一歩なんだな、と初心にかえる気分になってしまいます。

しかし、今年は全然見てない。いや、この番組が好きかって聞かれると、「そんなには」ってきっと答えます。

番組の価値を分かっている人達で受け継いでいけばいいじゃない。

好きな人が、それぞれ好きなことをやって生きるのが、結局は効率がいいのだ、と論点をすり替えたり。

それはそうと、小さな子供でも、知らないことは先生に聞くってことができるのに、NHKの人はそれをやらないんでしょうね。

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