ブログを書く上で、100%意図が通じると信じている人は何%居るんでしょうか。または、100%考えていることが書けている、と信じている人は何%でしょうか。
ブログを書くと、ある思考を読者がなぞってくれるはずだ、という意図があるわけです。しかし、それを外れるコメントがあったとしても、それは当然あり得る訳です。ブログという構造上、コメントはどの時点で書くかは決まって無く、タイトルを読んだ時点で書くことも可能であるのだし。
さて、タイトルと本文が乖離している、または断層があるエントリーがあったとしましょう。それは意図して行ったものではないかもしれないけれど、結果的にそうなったとします。
書き手はどういう期待をしているでしょう。
エントリーで言いたいことが、読み手に伝わっていることが、理想でしょう。しかし、往々にして期待通りにはならないし、その責任の半分は書き手にあります。
書いてあることが読みやすいか、それは書き手の能力に依存します。能力を棚に上げて、伝わってないからといってその責任をすべて読み手に乗せるのは、思考力に疑問を持たざるを得ません。伝える努力をすることと、それが必ず伝わる保証になるかとは別の問題です。それに気づいていない、というのは、冷静な判断ができているとは言いがたい。
『タイトル』は、本文の要約であることが望ましいのは、言うまでもありません。予断を持つのが当たり前だからです。むしろ、タイトルと違った結果を本文に書いてあると、読者は混乱するでしょう。タイトルから推察できることを、本文から読み取ろうとするのは当然ですし、それが書いてない場合、タイトルと本文のミスマッチであると気づくかどうかは運ですし、書き手がそういうミスをしていると指摘するのははばかられるものです。
親切に「タイトルの付け方が間違ってますよ」と、仮にコメントした場合、何が起きるか。
傲慢な書き手の場合、本文を読めば分かるとし、自分がタイトルの役割を軽んじていることは無視して、読み手が越権していると感じることでしょう。そもそも、タイトルが持っている意味を勘違いしている場合があるでしょうし。
再度書くけれど、タイトルは本文の要約です。もちろん、型からはずれた文章を書くことは可能ですが、基本を押さえておくことは常識です。
直接的に言わなくても、タイトルからの類推とは違った本文が書かれていた場合、『私は混乱している』というメタメッセージが書かれる可能性がある。
ブログの書き手が、セオリーを外して書いているのだから、当然です。しかし、メタメッセージは、想定していないと、メッセージだけしか読まず、メタメッセージを読み落とす可能性がある。本文通りのタイトルをつける能力がない時点で察せるのだけど、メタメッセージは読み落とすでしょうね。
さて、メタメッセージを読み落とすと何が起きるか。
エントリーが読めてない、と書き手は感じるものです。本当に読めてないのは書き手自身なのですが、それが分かってない。
そうなると、何を言っても通じない。そもそも読み取るだけの能力が無いですよ、というメタメッセージを発しているのだから。