日本サッカーが、完全にガラパゴス化するように監督を決めてしまいましたが、サッカーファンというのは世界に目を向けているのでその意志決定をどうみるのか。勝つための選択では無く、味方同士でパスを回すための選択とは見られないだろうか。
という要らぬ心配をしてしまいます。何が要らないのか。ボクはサッカーファンじゃないから。
などというオチを用意して、タイトルの話に持っていこうとして、(いやいや、話のマクラはもっと穏やかな話題にしましょうよ)、話がふと、繋がらないことに気付くという二段オチ。
鬼速PDCAというのがある。PDCAに速度制限なんてあったかな? とかいうボケが通じるとは到底思えないのだけど、いちおう真剣に取り組もうかなーって気持ちはある。
けど、第一段階でつまずく、というあり得ない状況。もちろん、PDCAを回すとかそんな段階じゃない。まずゴールが決まらない。
日本サッカーが、監督を問答無用に追い出して敵扱いし、味方を監督にするという国際サッカー界隈からみたらありえないオウンゴールを決めちゃってるように、自分自身もどこにゴールを設定すればいいか、よく分からない状況になっている。
目の前の状況を、拾えるものから拾い、学べるものを学び、情報を集めることで、自身の立っている場所に見当をつけることでしか、次の一歩は進めないかもしれない。
昔、漫画で生徒諸君! ってのがあった(今もある。完結してるだけで)。それでは、今の若者には不人気な山登りを、みんな嬉々としてやってたりする。
山で迷う、という事態を、どう考えるか。山を登るのが登山家の本能、みたいなことを言っていたような。たぶん言ってない。記憶はあいまいだ。それでもこの話を書くの? と自問自答するが、やっぱ書く。
選択は、常に結果は事前には分からない。分かってたらインサイダーだ。自然のインサイダーになるってのはすごい興味が湧くけど、実現するのは難しそう。などとバカなことをいうのも楽しいけれど、話は元に戻す。
サッカーの監督を日本人にしちゃうの、外の人間から見たら、道を外していると感じるのだけど、明確な哲学というか、指針があったら、そんなことにはならないと思う。つまり、勝利以外の力学が、その中の人にはかかっていると想像つく。
山中で、迷うのは当然、命がかかっている。そんな状況で、冷静でいられるだろうか。いや、そうではない。そこで求められる能力は、生き残る能力であり、日常から非日常へと変わったことで起こる、全てに対して、幸運で居続ける能力だ。
ボクが文章で迷うのは、文章力がないからだ。きっと、構成力というのが足りない。それは、人の世の中であれば、人の心の動きを描き、山の中であれば自然のありようをありのままに書く、そういう説得力のようなものが、きっと足りない。
サッカーの神に愛されているか。そういう視点で見る、謙虚さはあっただろうか。
山の神様は、山で迷う人に、どのように合図を送っているか。
そして、物書きの神様はボクに何を語りかけようとしているのだろう。
そういう神頼みなとこが鬼速PDCAをやれない理由なんじゃないの? という正論にぶち当たる今日この頃。