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台風前夜(ニュース的な意味で)

 

この曲を一日一回は聞いていると思う。まあ、ハマってる、というやつだ。

もっと広がれ、と積極的に推奨している訳では無い。あくまで、個人の感想。とはいえ、共感する人は一定数いるとは思っている。

そういえば、誰かの「私的メドレー」とかいうのが、ほんと肌に合わなかったことがあって、それはそれは意外だった。音楽はある程度吸収できる素養があると自覚しているが、ダメなのは沖縄民謡系とか、限られたジャンルだけだと思ってた。それを覆してくれたから、思い込みはこわいね、と。

 

さて、タイトルの台風前夜。いったいどこにとっての前夜かといえば、もちろん関東です。関東中心主義のテレビ業界なので、明日のテレビの内容が推測できてしまうのがあまりにもつまらない。

テレビが誰にとって便利か、というのをまざまざと見せてくる感じが、今のテレビばなれの一因のような気がする。それでいえば、テレビ局員は庶民じゃないんだな、と思える場面があったりするんですよね。

それも、非正規雇用が広まれば状況は変わるか、といえば、上司に変わりは無いから、今まで通りなんだろうなと。あ、この一行まるまるいらないや。と推敲してたり。

 

今日は、体調、というか内面的ではなく、骨格的な意味合いで体調が悪かった。あんあmり動けないと笑いがこみあげてくるのだが、そこまでひどくは無かった。

いかにして、具体性を出すか

日本サッカーが、完全にガラパゴス化するように監督を決めてしまいましたが、サッカーファンというのは世界に目を向けているのでその意志決定をどうみるのか。勝つための選択では無く、味方同士でパスを回すための選択とは見られないだろうか。


という要らぬ心配をしてしまいます。何が要らないのか。ボクはサッカーファンじゃないから。

などというオチを用意して、タイトルの話に持っていこうとして、(いやいや、話のマクラはもっと穏やかな話題にしましょうよ)、話がふと、繋がらないことに気付くという二段オチ。


鬼速PDCAというのがある。PDCAに速度制限なんてあったかな? とかいうボケが通じるとは到底思えないのだけど、いちおう真剣に取り組もうかなーって気持ちはある。

けど、第一段階でつまずく、というあり得ない状況。もちろん、PDCAを回すとかそんな段階じゃない。まずゴールが決まらない。


日本サッカーが、監督を問答無用に追い出して敵扱いし、味方を監督にするという国際サッカー界隈からみたらありえないオウンゴールを決めちゃってるように、自分自身もどこにゴールを設定すればいいか、よく分からない状況になっている。

目の前の状況を、拾えるものから拾い、学べるものを学び、情報を集めることで、自身の立っている場所に見当をつけることでしか、次の一歩は進めないかもしれない。


昔、漫画で生徒諸君! ってのがあった(今もある。完結してるだけで)。それでは、今の若者には不人気な山登りを、みんな嬉々としてやってたりする。

山で迷う、という事態を、どう考えるか。山を登るのが登山家の本能、みたいなことを言っていたような。たぶん言ってない。記憶はあいまいだ。それでもこの話を書くの? と自問自答するが、やっぱ書く。


選択は、常に結果は事前には分からない。分かってたらインサイダーだ。自然のインサイダーになるってのはすごい興味が湧くけど、実現するのは難しそう。などとバカなことをいうのも楽しいけれど、話は元に戻す。


サッカーの監督を日本人にしちゃうの、外の人間から見たら、道を外していると感じるのだけど、明確な哲学というか、指針があったら、そんなことにはならないと思う。つまり、勝利以外の力学が、その中の人にはかかっていると想像つく。


山中で、迷うのは当然、命がかかっている。そんな状況で、冷静でいられるだろうか。いや、そうではない。そこで求められる能力は、生き残る能力であり、日常から非日常へと変わったことで起こる、全てに対して、幸運で居続ける能力だ。


ボクが文章で迷うのは、文章力がないからだ。きっと、構成力というのが足りない。それは、人の世の中であれば、人の心の動きを描き、山の中であれば自然のありようをありのままに書く、そういう説得力のようなものが、きっと足りない。


サッカーの神に愛されているか。そういう視点で見る、謙虚さはあっただろうか。

山の神様は、山で迷う人に、どのように合図を送っているか。

そして、物書きの神様はボクに何を語りかけようとしているのだろう。

そういう神頼みなとこが鬼速PDCAをやれない理由なんじゃないの? という正論にぶち当たる今日この頃。

すこし思ったのだけど、

Open Live Writer でここのブログを書くのはなんか違う気がするが、違和感は、道具を使いこなしてから考えたほうが、発展がある気がするので、このまま続行。

ブラウザを使わない利点というのは確かにあるので、そこを考慮しておけば、いいのでは。ちなみに、いつも使っているブラウザは、Clock It! のページを開いてます。制限時間のある中でブログを書くっておすすめしない。プレッシャーの好きなひとならどうぞ。


眠気と戦いつつ、ブログを書くとかやるのだけど、ブログって基本、何書いてもいいんだよね、伸びないけど。

文章力、と言うとき、一番に必要になるのが、距離感だと思う(やっつけ)。

もし、じぶんが反省文を書かされる立場になったらと思うとぞっとする。そんなの一文字も書けない。


多少の文章力の向上に役立つかもしれない、ブログ書きだけど、どうも、通常には違う入力方法を使っているためか、ユニークになりがち。(ヒント・音声入力じゃないよ)


友達の居ない人は、文章が短くなりがち、とかいう話を、鵜呑みにして、確かに文章が短いな、とか思ったり。

たいへん役に立つことを書くでもなく。しかして、まったく役に立たないかというとそうでもなく。

自分のやりたいことと言えば、自分のキャラクターを許容できる人間との対話、だったりする。そのためにできることを考えているのだけど。

自分ひとりで書く文章と、他人のために書く文章とでは、傾向が違うのではないか? とか。その場合、よく使われる言葉が、

「誰か具体的な人物を思い浮かべなさい」

的なアドバイス

そう言われても、具体的な人物が思い浮かばない。

ああ、浮かばれない文章。

妄想的な、文章は、結局ゴールがない。というか、この文章自体が、自由に書かれている。自由だ、ということと、有益な情報が含まれているか、という懐疑と。

誰にとっても意味がある、などというつもりは無い。

どんな人に読んで欲しいか。といった想定が、出来ない。

できない以上、どういう読者層もイメージできていないのだから、考察も無意味。

自分とのドッジボールがお好み、という意見だってアリでしょう。

こういう文章で言えるのは、自分語り、というのはあっても、あくまで、自分はこういう人間ですよ、的な語りになるものを指している気がするのだけど、自分みたいな文章にはなんてネーミングがついているのか、よくわからない。

ずっと、経験を積み重ねることで、この書き方はいけない、らしいってことは分かっているけど、なんとなくそう思う、って程度だと、自分は動かせない。

なんというか、自分は学びにくい体質なのだろう。

ああ、反復練習が必要だ、といってもやらないような。クイズの問題にしにくいことは、遊び感覚で経験を重ねられない、とか思ったり。

ちょっと読み直してみよう。落胆するかも、ドキドキ。


やばい。読むの諦めた。目が滑る文章だ。というか目がしばしばする。

今日は、書くことがない。

ちょっと、関心のありかがここに書く内容とはずれていた日なので、適当に草を詰めます。

ここまで書いて、あとは熱中症というか脱水して、倒れるように寝ていたので、回復するのをまっていたような状態。

どのように話の種を持ってくるか、それは、考えなしに話し続けることで可能、というのは経験上知っているのだが、口頭でやると、30分程度のスケールで、最初にいった話と後半の話をリンクさせることができる。

面白いのは、それができるのは、それこそ無軌道に話をしていた場合に限る、という点。前もって、話す内容が決まっている場合に、発想を飛ばすことが出来ない。


と、また眠くなってきた。体力がないと、ほんといろいろと困ります。活動自体ができない。

ネタをなかなか集められない、という怠惰

ちょっとした実験をすると、結果が出るのが楽しみになる。


性善説性悪説の基礎すら知らないという、古典の教養がおろそかになった人が増加傾向では。


接続詞万能説を唱えていた中二病時代。相手は迷惑。


「学んだら具体的なアクションに落とし込んでください」というと、「なるほど!」といってメモをとっておしまいの人がいる。


人間関係は植物みたいな生長をする。つまり、たいていは時間がかかる。すぐに友情が育つ? それってモヤシ並?


マニュアルは大事。マニュアル化のマニュアルはもっと大事。


超一流になるのに、弱点の克服が必要と書いてあるのがある。その観念が発達障害者を苦しめる。


ネタを先取りするにも限度がある。要はマーケット感覚。

予想は楽観、結果は暗澹

掃除はなぜ最適化されないのか。



今日は自分の日じゃない、的な言い回しがあるらしい。

それを言ったら、誕生日にどえらい目にあった銀河鉄道の夜は大殺界か天中殺か。


車の中でどんな曲を流すか問題は、自分の好きな曲を流すか、モテ要素を入れ込もうか、で変わる気がするのだけど。



クラスの人は全員仲良し、という幻想を抱く教師に付き合いきれない、という生徒がでてくるのは仕方ない。それは人間を知らないと言ってもいい幻想だから。


数学者が難問に取り組むと、常人には計り知れない理由でドツボにはまることがあるらしい。オタクがジャンルにはまることを沼というが、海にハマるに変えよう、と提言があった海の日。


小さい子がユーチューブを見るのは暇だから。昔のテレビと同じ役割。


政治家が想定している、国民の理想的な家庭は、もうほとんどないらしい。それこそ、地盤・看板・鞄を引き継ぐ政治家くらいしか、そういう理想的な家庭はないのでは。


仕事の成果は説明できたほうがいい。農家だったら収穫期にどうなる、ということ想定して、その逆算で現在の行動を取っているわけで。ちゃんと逆算で仕事を片付けてますよアピールは要る。


今の、野球をプレーしている人より、野球のルールを作った人のほうが断然楽しかったはず。その努力の残り香が、楽しさを想起させる。


一日、ネットを見ていると、何かは思いつく。記録さえ残しておけば。


依頼人は、実は自分が何を依頼したいかを知らない。素敵なプレゼントをくれる人を、できるだけストレスなく探したい、というのが本当のところ。


コミュ障が増えたのは、要は空き地がないからだ。遊びは創造的なものであり、プロジェクトだ。みんなで遊ぶ、というミッションを核にしたプロジェクトだ。子供でもプロジェクトマネージャーなのだ。遊ぶ機会を失った、というのは、そういう人材を育てることができなくなったことになる。

つまり、これから日本を変えるなら、昔懐かしいガキ大将を作るべき、と言い出す老害がでてくるかもしれない。


スケジュールを立てるとき、一番気をつけるべきなのは、結局どうなりたいのか、を明確にすること。


人を育てたい、と言いながら、逆のことをしていないか、注意が必要。


礼儀は進化している。いわゆる老害は、今の礼儀の流れをみていない。


タネを植えよう。それしか、贈り物を受け取る資格がもらえないから。

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