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面白い、には力がある

 

やる気がないとき、どうしたら面白くできるか、という視点があると少し気が楽になる。

それこそが力だ。

面白いには、『常識とは違って』というキャプションがつく。

常識が面白い、とはならない。それは文化の違いだ。

尊重の気持ちがあれば、面白く感じることは上質の体験になる。

 

文章を書くということ

文章、悩んでます。

メモ以外に書くことが、実に面倒であることが増えているような気がする。

学生の時分から、必要事項以外のメモを取る、以外に書いていなかった。

 

しかし、よく考えてみると、自分の考えを伝えるような場面でも、正確な筆致をした覚えがなく、むしろ内容を書き落とした、足らない文章の方が多い。

 

言葉足らず、という言葉が、自分を言い表す言葉として的確だ、と指摘されたことがあるほど、自分は言葉が足りない。

正確には、文章を書いてみるまで、自分が何を考えているのか、知らないというパターンだったりする。

そう、自分の考えだとしても、書いてみるまで本人も知らないというくらい、脳を使ってない状態、かもしれない。

 

だから、書くという作業は積極的にしていきたい、とは思っている。自分が何を考え生きているかの証明のために。つまらない見栄の為に。

 

いやー、結構書いたなーと思って見ると、トータル原稿用紙1枚に満たないのを見て、愕然とする、というのがよくあるパターン。

おれってかしこい病はググらない。

少ない経験から、絞り出すようにブログを書く、と言う行為に、共感する人は多少はいるかもしれないけど、あまり一般的ではないと感じる今日今今。

自分の頭で考えるな、と言う態度が、研究者にとって大事な素養らしいのですが、NHKでやっていたらしい縄文時代の知識が、何十年も前の知識で止まっているとのツイートを見て、ついにテレビ局は教養をも手放したのかと思ったり。

自分らの頭で考えた、筋に合わせてロケをして番組にするという流れが常態化しているため、科学的見地が必要な場面でも、自分の頭で考えたんでしょうね。ググって出てくる情報はいまだ古いにしても、図書館なり文献なり、探すことはできないのかな、あ、人員削減がここで効いてくるのか。

そんな暇はないよと。

いくら、論理的に進めても、事実を検証してないなら価値がない。

さて、そんな世の中でも光明はあるわけで。

それが子供科学電話相談、だったかな?

勢いが大事なので、ここはググらずに書きます。

小さな科学者に、その道のエキスパートが答えるという、とてもユニークな番組です。

不思議だと思ったことが、研究の第一歩なんだな、と初心にかえる気分になってしまいます。

しかし、今年は全然見てない。いや、この番組が好きかって聞かれると、「そんなには」ってきっと答えます。

番組の価値を分かっている人達で受け継いでいけばいいじゃない。

好きな人が、それぞれ好きなことをやって生きるのが、結局は効率がいいのだ、と論点をすり替えたり。

それはそうと、小さな子供でも、知らないことは先生に聞くってことができるのに、NHKの人はそれをやらないんでしょうね。

台風前夜(ニュース的な意味で)

 

この曲を一日一回は聞いていると思う。まあ、ハマってる、というやつだ。

もっと広がれ、と積極的に推奨している訳では無い。あくまで、個人の感想。とはいえ、共感する人は一定数いるとは思っている。

そういえば、誰かの「私的メドレー」とかいうのが、ほんと肌に合わなかったことがあって、それはそれは意外だった。音楽はある程度吸収できる素養があると自覚しているが、ダメなのは沖縄民謡系とか、限られたジャンルだけだと思ってた。それを覆してくれたから、思い込みはこわいね、と。

 

さて、タイトルの台風前夜。いったいどこにとっての前夜かといえば、もちろん関東です。関東中心主義のテレビ業界なので、明日のテレビの内容が推測できてしまうのがあまりにもつまらない。

テレビが誰にとって便利か、というのをまざまざと見せてくる感じが、今のテレビばなれの一因のような気がする。それでいえば、テレビ局員は庶民じゃないんだな、と思える場面があったりするんですよね。

それも、非正規雇用が広まれば状況は変わるか、といえば、上司に変わりは無いから、今まで通りなんだろうなと。あ、この一行まるまるいらないや。と推敲してたり。

 

今日は、体調、というか内面的ではなく、骨格的な意味合いで体調が悪かった。あんあmり動けないと笑いがこみあげてくるのだが、そこまでひどくは無かった。

いかにして、具体性を出すか

日本サッカーが、完全にガラパゴス化するように監督を決めてしまいましたが、サッカーファンというのは世界に目を向けているのでその意志決定をどうみるのか。勝つための選択では無く、味方同士でパスを回すための選択とは見られないだろうか。


という要らぬ心配をしてしまいます。何が要らないのか。ボクはサッカーファンじゃないから。

などというオチを用意して、タイトルの話に持っていこうとして、(いやいや、話のマクラはもっと穏やかな話題にしましょうよ)、話がふと、繋がらないことに気付くという二段オチ。


鬼速PDCAというのがある。PDCAに速度制限なんてあったかな? とかいうボケが通じるとは到底思えないのだけど、いちおう真剣に取り組もうかなーって気持ちはある。

けど、第一段階でつまずく、というあり得ない状況。もちろん、PDCAを回すとかそんな段階じゃない。まずゴールが決まらない。


日本サッカーが、監督を問答無用に追い出して敵扱いし、味方を監督にするという国際サッカー界隈からみたらありえないオウンゴールを決めちゃってるように、自分自身もどこにゴールを設定すればいいか、よく分からない状況になっている。

目の前の状況を、拾えるものから拾い、学べるものを学び、情報を集めることで、自身の立っている場所に見当をつけることでしか、次の一歩は進めないかもしれない。


昔、漫画で生徒諸君! ってのがあった(今もある。完結してるだけで)。それでは、今の若者には不人気な山登りを、みんな嬉々としてやってたりする。

山で迷う、という事態を、どう考えるか。山を登るのが登山家の本能、みたいなことを言っていたような。たぶん言ってない。記憶はあいまいだ。それでもこの話を書くの? と自問自答するが、やっぱ書く。


選択は、常に結果は事前には分からない。分かってたらインサイダーだ。自然のインサイダーになるってのはすごい興味が湧くけど、実現するのは難しそう。などとバカなことをいうのも楽しいけれど、話は元に戻す。


サッカーの監督を日本人にしちゃうの、外の人間から見たら、道を外していると感じるのだけど、明確な哲学というか、指針があったら、そんなことにはならないと思う。つまり、勝利以外の力学が、その中の人にはかかっていると想像つく。


山中で、迷うのは当然、命がかかっている。そんな状況で、冷静でいられるだろうか。いや、そうではない。そこで求められる能力は、生き残る能力であり、日常から非日常へと変わったことで起こる、全てに対して、幸運で居続ける能力だ。


ボクが文章で迷うのは、文章力がないからだ。きっと、構成力というのが足りない。それは、人の世の中であれば、人の心の動きを描き、山の中であれば自然のありようをありのままに書く、そういう説得力のようなものが、きっと足りない。


サッカーの神に愛されているか。そういう視点で見る、謙虚さはあっただろうか。

山の神様は、山で迷う人に、どのように合図を送っているか。

そして、物書きの神様はボクに何を語りかけようとしているのだろう。

そういう神頼みなとこが鬼速PDCAをやれない理由なんじゃないの? という正論にぶち当たる今日この頃。

すこし思ったのだけど、

Open Live Writer でここのブログを書くのはなんか違う気がするが、違和感は、道具を使いこなしてから考えたほうが、発展がある気がするので、このまま続行。

ブラウザを使わない利点というのは確かにあるので、そこを考慮しておけば、いいのでは。ちなみに、いつも使っているブラウザは、Clock It! のページを開いてます。制限時間のある中でブログを書くっておすすめしない。プレッシャーの好きなひとならどうぞ。


眠気と戦いつつ、ブログを書くとかやるのだけど、ブログって基本、何書いてもいいんだよね、伸びないけど。

文章力、と言うとき、一番に必要になるのが、距離感だと思う(やっつけ)。

もし、じぶんが反省文を書かされる立場になったらと思うとぞっとする。そんなの一文字も書けない。


多少の文章力の向上に役立つかもしれない、ブログ書きだけど、どうも、通常には違う入力方法を使っているためか、ユニークになりがち。(ヒント・音声入力じゃないよ)


友達の居ない人は、文章が短くなりがち、とかいう話を、鵜呑みにして、確かに文章が短いな、とか思ったり。

たいへん役に立つことを書くでもなく。しかして、まったく役に立たないかというとそうでもなく。

自分のやりたいことと言えば、自分のキャラクターを許容できる人間との対話、だったりする。そのためにできることを考えているのだけど。

自分ひとりで書く文章と、他人のために書く文章とでは、傾向が違うのではないか? とか。その場合、よく使われる言葉が、

「誰か具体的な人物を思い浮かべなさい」

的なアドバイス

そう言われても、具体的な人物が思い浮かばない。

ああ、浮かばれない文章。

妄想的な、文章は、結局ゴールがない。というか、この文章自体が、自由に書かれている。自由だ、ということと、有益な情報が含まれているか、という懐疑と。

誰にとっても意味がある、などというつもりは無い。

どんな人に読んで欲しいか。といった想定が、出来ない。

できない以上、どういう読者層もイメージできていないのだから、考察も無意味。

自分とのドッジボールがお好み、という意見だってアリでしょう。

こういう文章で言えるのは、自分語り、というのはあっても、あくまで、自分はこういう人間ですよ、的な語りになるものを指している気がするのだけど、自分みたいな文章にはなんてネーミングがついているのか、よくわからない。

ずっと、経験を積み重ねることで、この書き方はいけない、らしいってことは分かっているけど、なんとなくそう思う、って程度だと、自分は動かせない。

なんというか、自分は学びにくい体質なのだろう。

ああ、反復練習が必要だ、といってもやらないような。クイズの問題にしにくいことは、遊び感覚で経験を重ねられない、とか思ったり。

ちょっと読み直してみよう。落胆するかも、ドキドキ。


やばい。読むの諦めた。目が滑る文章だ。というか目がしばしばする。

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