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6箱方式とキネティックチェーンにとってクリティカルパスは問題発見の4Pの1つにすぎない

にわかでググった単語を並べただけーっていう。

それで伝わるのか。横文字がトレンドって言ってみたり。

 

問い、まあ、課題と言い換えてもいいのか? 問いを持つのはいいことだっていう観念があったり。

 

「もし明日しぬとしたら、いまやっていることはやるべきことなのか」

「すみません、宗教上の理由でその設問はNGです」

 

まあ、いろんな人がいるよね、と。

 

考えの違いは、日本ではあまり表に出さないので、こじれていること自体が見える化していない場合もあるはず。

ちなみに、ぼっちなので噂とかきいたことがないので、口が堅いかどうかの自覚なし。

 

以前、自作でクロスワードを作った際、解いてもらった人に

「このキーは納得できない」

とダメだしをされたことがある。

実は、そういう、謎解きだったりクイズは、ちゃんと作る人ならみんなが納得できるルールで作っているのです。

 

信条、マイルール、そういうのは、聖域だったりしますよね。

クレドトップダウンで決めちゃいけないのは、そういうもののすりあわせをしていないからです。

でも、全員がゴールで同じ場所を見る必要は無い。

キャリアデザインとかみんな違いますし。

しかし、中途ではずれる人は、目的があってやることなので、悪し様にいうことはない。

むしろ、キャリアデザインをしてない、いわゆる就職ではなく就社の人は、キャリアアップを考えてないことがあるので、実はスキルアップをしない、手を抜いているのかもしれない。

まあ、そういう場合は、いよいよ組織が危うくなった場合にゆでがえるになる可能性があるのです。

 

どこかでみた、餌のつまった瓶の話。

餌を少し食べる分には、ぜんぜん問題ないけど、たくさん食べると瓶からでられなくなって餌を待つだけの生き物になる、みたいな寓話。

それっておかしくね?

たぶんだけど、その瓶の中はふんまみれだよねっていう。

そういうのは、トイレのシステムで処理してますっていうなら、それは刑務所というのでは?っていう。

 

結局、やる気がボトルネックになるのなら、それを薫化するって、隗よりはじめよっていうなら分かるけど、率先垂範するように、って訓示をするのは違うかなって。

 

人望ってのは、心の豊かさだったり、共感力だったり、言語化がうまかったり。いわば、良知を致すのが正道だったするのだけど、そこはそれ、アスペルガーに共感力を期待しないように。

 

そもそも、努力できるスタート地点に立てることが幸運だ

「アクセスが増えた後のエントリーが大事だ」

ベタなことを書かないようにしよう、というメタなことをいう回。

 

脳に効くサプリを飲んだら、ちゃんと薬剤師の方は気づいてくれました。なんでそんなに察知力高いのか。というか、普段どんだけアスペルガーのオーラを放ってたのか。

 

さて。

問い、というのに注目している。

つい最近読んだ本の影響だけど。

それで思い出したのが、アルベルト・アインシュタインの言葉。

「いかなる問題も、それと対峙したときのレベルのままでは解決しない」

的な?

 

つまりは、問題は成長しているかのテスト、みたいなニュアンスで考えてたり。

 

 

頻繁に問いを発するべきだ、という考えは、学習効率の本を読んで思ったこと。

テスト、何を測っているかは自覚的であるといい。

そういうPDCAサイクル的な発想をしているのですが、こういう考えを実行できるのではないかな? っていうのが、最近の感じ。

 

子供の頃は、文章が書けず、話す内容はほとんどがダジャレ。

思春期でクイズの問題文なら書けるようになり、問題文を朗読するような人だった。

何かを意図的に書くのはまあ、できなかった。

アインシュタインの言を取れば、アスペルガーを、レベルを上げて物理で殴る的な対処をしないと、克服できない。

それでカイゼンをしたのかというと、簡単ではなかった。

 

思春期くらいから、非常に体調が悪くなってたから。

週の半分は頭痛でぐったりしてるのがデフォですからね。

今みたいに、天気痛の概念がそう広まってなかったので、ただひたすら、理由の分からない頭痛に耐えるしかなかったという。

頭痛でぐったりしつつも、なんとか勉強。しかし、小論文が書けないのでお察し。

 

工場勤めになっても、相変わらず頭痛。なんとか頭痛薬を飲むタイミングを理解したところで工場が倒産。

新天地で、工場で勤めるも前とは違ってコミュニケーション能力を鍛えるのが課題になる。レベルが変わったってことね。いつの間に。

 

その、コミュニケーションができるようになるのに、丸5年。

それでようやく人並みか、とおもったらリウマチを発症。

地元に帰るしかなかった。

 

それで、リウマチ治療、失業のストレス回避、障害年金の申請とで、そういうのを解消するのに、だいたい5年。

そこから、メンタルが回復するにさらに数年って感じですか。

 

努力して、ようやくスタートラインに立てた感じ。

でも、リウマチを基準にすると、できることは少ないんですよね。

プログラミングはおそらく、アスペルガーの特質で方言が獲得できないっていう感覚から言えば、プログラミング言語をちゃんと使えるようになるのって、難しそう。

 

書く適正がない人が、ブロガーをやったほうがマシ、ということが、腹落ちしないけど。

 

そうそう、20代で自己改善はある程度できた。それは、ボトルネックという考えを浸透させた、TOC理論が、実は箇条書きでも実行可能だったことが大きいんですね。

 

付箋に現象を書いて、それの制約条件を洗い出す、という作業が、自分の「書けない」ボトルネックに干渉しなかった、それで助かった面がある。それの応用で、たいりょ

 

 

方言とエクリチュール、猫が好きなのは?

書く体力が無い。

書く、と書いてしまうあたりが書き慣れてないと思ってしまう程度の執筆量なのだけど、執筆と書いてしまうと、それはそれでハードルが高い気がするめんどくさいお人柄な執筆者です。

だいたい、500文字くらい書けば満足するのだけど、2000字は書きたいな、と目標を定めるのは、今の執筆量に満足していないから。

書き慣れていないことで、書くはずだったことがかけずにいる、少なくとも、自分が満足できる内容をかいたことがない、くらいの無力感はある。

書くのに疲労していたのも大きい。

書く、それは体力が要る。

それに気づいたのは、たくさん書いた翌日だったりするんですよね、

もう、なんか書く気がしないっていう感じ。

昨日かいたからっていうより、マラソンの後、っていう倦怠感。

持久力ないな、では、実は済まない。

書くのを、もっと身近に、というより、生涯にわたって執筆を続けようっていう決意を、今後どっかの時点でするかもなーっていう淡い期待をしているのだけど、それが今決断できないのは、疲れるからっていう、体力がネックになっているっていうのがある。

体力、大事。

体力は、何をするにも資本になる。

アントニオ猪木は言いました。元気があればなんでもできると。

元気の基準が、アスリート並みの体力を意味しているとは、お釈迦様でも気づくまい。

まあ、そういうわけで、体力がなければ書けない、とだだをこねていたのだけど。

 

マッサージガンを手に入れました。具体的には購入。

マッサージを、ガンガンできるっていうことで、使用。疲れがこれでとれそうだ、と判断。

これなら、執筆をしても疲れを気にすることはないだろうな、と執筆を開始っていう段階。

毎日マッサージと、そして執筆をして、書く体力をつけてやろうっていう。そういうこと。

若いうちの苦労は買ってでもせよっていうのが、歳を取ると疲労に変わるからっていう実感がでてきたり。

疲労が限界を規定しているなら、そのボトルネックを排除するのは当然です。

それで、執筆をする、言い換えるなら生産性をあげることができるなら、いずれペイするだろうなという企み。

執筆が好きか、というと、たぶん、書いている時の高揚感が好き、ということになりそう。

執筆の内容を見かえすか、それはどうなのか、カイゼンすることを考慮した執筆なのか。

そういったことは、追追考えるとして、執筆の体力がまず上がらないと、好きでも着手できないじゃない。

趣味を謳歌できることを仕事選びの基準にする人はいるだろう。趣味を仕事にできなかった人の次善策として、せめて仕事が邪魔にならないことを祈りつつ、仕事にいずれ埋没する人もいる。

好きな作家さんが、本業を理由にネットにでなくなったり。

好きなボカロPが仕事で引退したり。

好きな漫画家がマンガを描く余裕がなかったり。

そういうのを、まずみている。

 

自分が文章を書くのは自己満足だったりするのだが、それでも、疲れるからと控えている。

それなら、疲れがボトルネックにならなかったら?と妄想する。

それで、マッサージガンを買った、

ということにしよう。

 

そうやって、買い物を自己正当化するのです。

 

まあ、執筆をしたいっていうのは本音だし、本当に体力がついたら執筆三昧になるだろうけど、それには、まだまだ書く能力が、こなれていない。

駄文を、まだまだ1年とかのスパンで書かないと、まともな文章にはならない。

それは過去の文章を見ていれば分かる。

以前の、なんと言葉少ななことか。

言葉は使わないと、磨かれないからね。

推敲は、実際に書いて、晒してってじゃないと。

 

そういえば、昨日だったか、自閉症は方言を話さない、的な話をネットで見た。

それは、複雑な要素が絡んでのことだから、即断できることではないが、それでいうと自分は書き言葉、つまりは文章を書くっていう方言がまったくできてなかった。

内田樹さんのエクリチュールの話だったか、それを加味すると理解できそう。

 

文章化できないのはこういう考察とこういう考察を合わせれば理解できるんじゃないの?っていう趣旨の文章なんだから、言語化できなくてもそういうもんだ、と理解してね。

 

さて、自分は文章が苦手だ。どれくらい苦手だったかというと、文章の自閉症っていって差し支えない程度には、文が書けなかった。

それでいて、中学生頃から、メモ魔だった。メモを見返さないっていう落ち度はあったけど。

それが両立するところが面白いと思うけど。

書くことはできる。文章ができない。

この辺を理解してもらうのは、難しいと思う。

なぜなら、それがどういうことだったのか、自分でも消化し切れていないところがあるから。

状況を言語化して伝えられないなら、理解は難しい。

 

さて、マッサージしてから書き始めたのだけど、まだまだ書ける雰囲気はある。腕は疲れてない。腰は、ちょっと怪しい。目はしょぼしょぼしてきた。

点眼をすれば、というのも、そのうち懸案にあがってきそう。それがネックならば。

しかし、集中が切れ

あー、書いた書いた。

出力に意味は無くとも、自分的には価値があります。

何を書いているか、自分では意識していないことがある。なんといったか、アイデア大全の1番目にあったやつ。

フリーライティングとかいったか、それに類するもの。

書いている時に、書く理由とか、使命感みたいなものをみつけて、書いてて楽というか、気持ちよくなるやつ、たぶん、脳内薬物がでてるかも。

それは天然物だから、悪くはないのだけど、それでハイになる経験が大事な気がする。

執筆ハイって、まだ経験をしていないような。自覚することがいいのかも。そうしたら、予兆があればそれに傾聴することができるから。

それが有益だ、という観念があれば、多少の困難ものりこえるのが楽。

苦あれば楽ありというが、それにかこつける人が現代では上の役職にいるのが常。

そうはいっても、外国由来のサービスは、そういうのに縛られないことがあるので、それに乗っかるようにすればいいのでは。

それは、ユーチューバーのことを言っているのかい?

なんて、どこかの魔女に言われそうだけど、そういう仕事は自分には合わない。

しゃべりで人を湧かせるっていうのは、才能が必要。

才能のなさは、いろいろな場面で自分は経験しているので、そういうのには縁遠いのだけど、唯一、執筆については、こなせばなんとかなるのではないか? と、さっき思った。

さっきかい!ってツッコミ待ちだったり。

 

書いていて、自分だけが楽しいっていうのは、よろしくない。

読者にためになることを書かなければ、みたいな余計な使命感っていうのがあるでしょ、それは本当に必要な意識なのか。

こうやれば儲かる、そういうノウハウがあるのは知っている。

しかし、突き抜けてないと、ノウハウの無駄遣いのような。

才能のない人が同様のことをやれば、どこかのまとめサイトのような、インターネットデブリとしての、いわば検索ゴミとでもいうような状態になる。

そういうの、本当に自分が望んでいたインターネットですか? 自分さえ良ければ良いっていう、エゴ入ってませんか? っていう。

楽しく書くことは、雰囲気がいい。それは、自分の中でフィルターを通しているから。ゴミはいらないと、取り除いているから、有益な場面がある。

自分の読者はどういう人か。

エゴな人か、ゴミを拾うエコな人か。

それって得じゃないですよね、というのが、正論であるかのような空気がありますが、空気って、タダだから、汚れるものなんですよね。

公害の概念と地続きで、ネット公害っていう概念があってもいいじゃない。

それって、ネット論客とかいうものより、上位の概念になると思うから、みんながネットでマナーを守ろうとしている、その状態で発生するもののような気がする。

よくある、暇という概念。

暇つぶし、というのが自分はしたことがない。

何かしら、やることあるでしょっていう。

疲れたら、横になるっていうタスクをこなす訳で、時間があればブログを書いたり。

それって、タスクでしょ、自分の心をメンテナンスする大事な時間です。

暇って、やる気がないっていう、贅沢な思想のような。

主導的ではないけど、っていう。

生存競争を強いられているような状態では、暇というより、疲労困憊で休憩をしている、っていう人がいるかな。

真剣っていうか、こういう駄文を真剣に読んでいるか、それとも暇つぶしで読んでいるのかっていう差異はあるだろうけど、どっちにせよ、やっていることは変わりない。読んでるだけ。

読むのに、意味付けをしていない状態を、暇というのでは。意味がない、と思い込んでいるから、経験に気づかない。それの意味する影響を知らない。

影響を意識すれば、ほんの一言が、刺さる。

刺さるっていうのは、その時はとげのように感じるかもしれない。

気になるから、何度か読む。自覚なしに。

それで、意識を、その経験が意味するところに気づけば、世界が変わる。

変わるっていうのは、文字通り。

暇、というのがなくなる。

すべての行動に意味が出てくる。

実は、その状況はきついっていう人もでてくる。

それでも、逆戻りはできない。

その、突き動かされる衝動というのは、それこそ、選べない。

という駄文を書いたなーっていう自己満足。

影響は環境

今日は普通に過ごす、ということを考えている。つまりインプットを心がけるくらいのニュアンスです。
それがプラスかどうかは、アウトプットをするかどうかにかかっています。アウトプットをしないインプットに価値がない価値観だったらそうなるでしょう。そういう風に生きたい願望があります。
昼寝のすさまじさは、それが昼だろうが夜だろうが、品質として均等であるはずなのに、なにか違う気がするところでしょうか。昼に寝ている、というのに、どこか贅沢さを感じているかもしれません。
その意味するところは、得をしようという精神かもしれません。
なんだか得をしている気分になるから、昼寝をする。
損得で動くのは、損、という鉄則に当てはめれば損なのですが、そういう錯覚をしていくのが人生だ、と諦めムードです。
どうでも良いことを書くのが俳句、という名言を、テレビで見ました。いつだったか。
記憶を探る際は、本人にとってはリアルタイムで脳内再生されているのだから、いつ頃の情報かなどは自分は気にならないのですが、裏を取る作業が身についている人にとって、許せないものかもしれません。許せない、という感情が、視野を狭くしているのですが、それは年齢が解決するものであり、解決しないならば、その人は若々しいと判断できるかもしれません。
身近の知り合いをネタにする人がいますね。
それが、良いことかというと、身バレが本人の意志によらないので、止めたほうがいいのは明か出る。それでも出す、という意志が、フェイクを織り交ぜる文化になりました。
フェイクを入れる際、つじつまがあわなくて、それが話題の主となるケースがあります。そういう雑談が面白い場合もありますが、これが相談の場合は、意図しない結果であり、悲しい現実がたぶん、ネット以外の現実でも当人には起きていると推測できます。
フェイク文化でもわかる通り、つじつまをあわせるのは、けっこうな問題です小説家はそのへんを曖昧に書く能力に長けている人がなる職業でしょう。つまり、技術的には冗長な方が、小説向き、ということでしょうか。
自分にはない才能なので、フェイクのできる人がうらやましいです。
しかし、そういう人がみな小説家になるかといえば、ぜんぜん違います。
その才能をいかんなく発揮する、といえば、詐欺師が思いつきます。
迷惑メールの才能、という形で発揮されているのです。
その、誰にも読まれない文章を、書く、もしくはそれで勘違いするようなレベルの読者を獲得して満足するというメンタルなのは、個性で済まされないでしょう。
詐欺師のすべてがクリエイティブかというと、マニュアルをつくる才能とか、つまりは普通に会社を経営すればいいのに、と思う人材もいるでしょう。
詐欺師は、脱税をしている、という考えもあるので、もうすこし、有効性のある職業を紹介するから廃業しないか、と誘うことも可能かもしれません。
まさか、自分は正しい、という感性で詐欺を働く、という人間の話題を観測することになるとは思いませんでしたが。

今、作家の日記を読むのが日課になっています。その継続期間は二日。それは三日坊主には負けますが、このところ一日で飽きることが多かったので、そういうリアクションを取っていること自体がニュースです。
それで、日記を書くことが、ビジネスになる、というモデルのその作家をまねて書いてみることを思いついたのです。
一定の分量を書く練習もしたいですし。
自分の能力を過信するのは、よくあることです。
それ自体は責められるものではありません。
有言したときに、関係する人に迷惑をかけた時に、どう反省するかでしょうか。
反省することを人生に織り込む、というのは大切な気がします。自分は一切そういうことを考えたことがありませんが。
 
ネットで、いろんな人にチャンスが訪れるようになりました。
通勤電車が苦手だ、という人にも、リモートという道ができたので、継続して仕事が可能になりました。
そういう、本質でないところで人生を諦める人には、テクノロジーで対応されればいいのですが。
それで、変化していく日常ですが、偏見は時代遅れなものになっていく、ということが考えられます。
というかメディアで醸造される、あたかも存在するかのようにふるまうマスコミ謹製世論というのは、SNSを介して、徐々に変化して行ってますね。
それが良いか悪いかは置いておいて、ネットに触れずに生きていける人種は、変化のスピードがネットと違ったものになりそうです。
ネットの興味というのが、数日で忘れられるのに、その中で粘着する人は継続して粘着し続けているらしい、という情報が観測されます。
それも、変化に対応できない人種でしょう。
共通点はあるのか、という議論をしたいのではないですが、一見すると類似しているように見えるコトに、早急に結論をだしたがるのが、ネットで情報に加速度的に触れている人の考えかもしれません。
変化できる、というのは、アドバンテージになりうるか、というと、それ単体ではならないでしょう。
それが今の環境に適応しているか、という観点が抜けている場合は意味が無い。
肉体的限界が一番のネックになりますが、それがあることで、

無題はムダ

人生は眠い。そして左肩が痛い。

今日はほぼなにもしていない。昨日のほうが何もしていないので、進歩とかしているようなしてないような。

よく、トップに躍り出る、という言い回しがでてくるが、踊ってたらダメだろ。

 

脱酒島、という語彙をねつ造する人がいる。ねつ造が文化をすすめる。

 

脳内会議、という言い方をするが、脳内で会議できるほど、人物を観察していない。

つまり、誰も発言しない脳内会議がデフォ。

 

身近な話題を出そうとして、それでいて身バレをさける器用さがないと判明。

 

反乱はクーデターだが、『私、お腹すいてないから』からの、クゥ、とお腹がなるコンボの名称を知りたい。

 

さんずいを書くとき、ずいずいずっころばし、と歌ったののはいつの日か。

 

見た目で判断しない、という人はエクリチュール 

エクリチュールについて - 内田樹の研究室

を読んでも意見を変えないだろうか。

歯ブラシを買いました。

日本の特筆すべき長所に国民皆保険制度がありますが、それが常にいいとは限らないらしい。

歯磨きを怠ける層が一定数いて、それは世界的にもそうなんだろうけど、そういう人は治療代の高いケースに対応できず、淘汰されてしまいます。

日本では、安くしかも高度な治療を受けられるので、慢心が生まれてしまうのです。

それで口臭のきつい日本人、というイメージが拡散されてしまうのです。

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