出力に意味は無くとも、自分的には価値があります。
何を書いているか、自分では意識していないことがある。なんといったか、アイデア大全の1番目にあったやつ。
フリーライティングとかいったか、それに類するもの。
書いている時に、書く理由とか、使命感みたいなものをみつけて、書いてて楽というか、気持ちよくなるやつ、たぶん、脳内薬物がでてるかも。
それは天然物だから、悪くはないのだけど、それでハイになる経験が大事な気がする。
執筆ハイって、まだ経験をしていないような。自覚することがいいのかも。そうしたら、予兆があればそれに傾聴することができるから。
それが有益だ、という観念があれば、多少の困難ものりこえるのが楽。
苦あれば楽ありというが、それにかこつける人が現代では上の役職にいるのが常。
そうはいっても、外国由来のサービスは、そういうのに縛られないことがあるので、それに乗っかるようにすればいいのでは。
それは、ユーチューバーのことを言っているのかい?
なんて、どこかの魔女に言われそうだけど、そういう仕事は自分には合わない。
しゃべりで人を湧かせるっていうのは、才能が必要。
才能のなさは、いろいろな場面で自分は経験しているので、そういうのには縁遠いのだけど、唯一、執筆については、こなせばなんとかなるのではないか? と、さっき思った。
さっきかい!ってツッコミ待ちだったり。
書いていて、自分だけが楽しいっていうのは、よろしくない。
読者にためになることを書かなければ、みたいな余計な使命感っていうのがあるでしょ、それは本当に必要な意識なのか。
こうやれば儲かる、そういうノウハウがあるのは知っている。
しかし、突き抜けてないと、ノウハウの無駄遣いのような。
才能のない人が同様のことをやれば、どこかのまとめサイトのような、インターネットデブリとしての、いわば検索ゴミとでもいうような状態になる。
そういうの、本当に自分が望んでいたインターネットですか? 自分さえ良ければ良いっていう、エゴ入ってませんか? っていう。
楽しく書くことは、雰囲気がいい。それは、自分の中でフィルターを通しているから。ゴミはいらないと、取り除いているから、有益な場面がある。
自分の読者はどういう人か。
エゴな人か、ゴミを拾うエコな人か。
それって得じゃないですよね、というのが、正論であるかのような空気がありますが、空気って、タダだから、汚れるものなんですよね。
公害の概念と地続きで、ネット公害っていう概念があってもいいじゃない。
それって、ネット論客とかいうものより、上位の概念になると思うから、みんながネットでマナーを守ろうとしている、その状態で発生するもののような気がする。
よくある、暇という概念。
暇つぶし、というのが自分はしたことがない。
何かしら、やることあるでしょっていう。
疲れたら、横になるっていうタスクをこなす訳で、時間があればブログを書いたり。
それって、タスクでしょ、自分の心をメンテナンスする大事な時間です。
暇って、やる気がないっていう、贅沢な思想のような。
主導的ではないけど、っていう。
生存競争を強いられているような状態では、暇というより、疲労困憊で休憩をしている、っていう人がいるかな。
真剣っていうか、こういう駄文を真剣に読んでいるか、それとも暇つぶしで読んでいるのかっていう差異はあるだろうけど、どっちにせよ、やっていることは変わりない。読んでるだけ。
読むのに、意味付けをしていない状態を、暇というのでは。意味がない、と思い込んでいるから、経験に気づかない。それの意味する影響を知らない。
影響を意識すれば、ほんの一言が、刺さる。
刺さるっていうのは、その時はとげのように感じるかもしれない。
気になるから、何度か読む。自覚なしに。
それで、意識を、その経験が意味するところに気づけば、世界が変わる。
変わるっていうのは、文字通り。
暇、というのがなくなる。
すべての行動に意味が出てくる。
実は、その状況はきついっていう人もでてくる。
それでも、逆戻りはできない。
その、突き動かされる衝動というのは、それこそ、選べない。
という駄文を書いたなーっていう自己満足。